"photobashiru" ...

写真を中心に、ほとばしってるものを。

「傲慢さ」と「謙虚さ」

1日にいくらでも寝られるというのは一体どんな体の状態なのだろう。
精神の疲れの蓄積によるものなのか、体の疲れの蓄積によるものなのか、
あるいはその両方かもしれない。
それでいて夜中に寝ている時には悪夢ばかり見てよく眠れた心地がしない。
煙草の量が増えたせいか、寝ている間に口の中、腹の中に溜まった
どす黒い悪臭を放つ液体が溢れ出てくるような感じで、
嘔吐する夢を見て目を覚ました。
他人に対する攻撃性というのは自分の中にもあって、
それが夢の中で爆発する。
自分の中にそういった面があるという事実が嫌で、
腹立たしくもあるせいなのか、
意識下では恐らく理性の働きによって、
心の奥底に封じ込められているのかもしれない。
それが無意識下で解放されていると考えると、
ますます嫌な気分になる。
自分が他人から距離を置きたいと感じるのは、
そのような自分の嫌な面が現れてしまうのを恐れているというのもあるし、
未だそのような自分自身を受け入れきれていないためなのだろう。

それから、もう一つ私が飼いならすことができないものに "傲慢さ" がある。
どうもこれは生来から備わっている資質のようなものらしく、
容易に矯正できるものではないらしい。
別の言い方をすれば、
自分を客観的に見れているという錯覚に陥っている、
妄想癖がある、などに関連があるかもしれない。
要するに、自分に都合の良い解釈をして、
薄々はそうではないと気づいていながらも、それでよしとする、
とでも言ったら良いのか、そんな傾向がある。
タチが悪いのは、自分ではそんな性質がまんざら悪いことでもないと、
思っている点である。
人によっては、鼻持ちならないとか、耐え難いと感じることだろう。
私にとっては、この点については自認もしているし、
他人についてもどちらかと言えば、そのような人物の方が魅力的だと思う。
逆に言えば、そうでない人の方を耐え難いと感じている。
(自分で納得しているという意味では、"飼いならしている" と言うべきか。)

恐らくこのような性質のためだろう、昔から引っかかる言葉がある。
「謙虚であれ」という言葉である。
謙虚さの美徳というのはもちろん理解できるし、
自分でもそうありたいとは思う。
私から見て謙虚だと感じる人はとても魅力的に見える。
それが語られる文脈のせいなのか、何かモヤモヤとした感情が生じて、
その正体がはっきりしないままになっていた。
それで、よくよく考えてみると、
謙虚さと他人への感謝を同じレベルで語られるときに、
何か反発心が生じているように思う。
私からすると、「謙虚さ」と「他人への感謝」というのは、
似てはいるかもしれないが、全く別のものだと思っている。
さらに言えば、「傲慢さ」と「謙虚さ」は対義語ではあるものの、
一人の人間の中で両者は共存し得るものだと思っている。
(もしかすると、これは言葉の定義の問題かもしれない。)
私が今話題にしている「傲慢さ」とは「自愛(自分を大切にすること)」
と言った方が正しいのかもしれない。
(また別の話題になってしまうが、
 奇妙なことに、「自愛」と「自己愛(ナルシシズム)」が混同されて
 認識されていることがあるようである。
 意味するところを考えると、全くの別物であるように思うが...
 字面は確かに似ている。)
「他人への感謝」にしても、厳密に言えば、そのままの意味と、
処世術的な意味があると思う。

「他人への感謝」のそのままの意味について、
今の自分があるのは周りの人のおかげであるという思いがある。
感謝の念を通り越して、自分ではほとんど何もしていないなという、
卑下の念すらある。
「今の私があるのは、皆さんのおかげです。」と思う一方で、
実際に今自分が上手くやっているという意識は全くない。
「今上手くいっていないのは、私の力不足です。」
こう考えてみると、
「他人への感謝」と「謙虚さ」が結びつけて語られるのは理解はできる。
しかし、私が魅力的だと感じる「謙虚さ」とは、そういうことではない。
上の「謙虚さ」は、
「他人への感謝の気持ちを言葉として表現している」時点で、
どちらかと言えば、処世術的な意味の「謙虚さ」であると思う。

私が魅力的だと感じる「謙虚さ」とは他人とは全く関係のないもので、
結果の良し悪しも関係ないものである。
それは、生き様とか、美学、自分の中の行動指針のようなものだと思う。
別の表現では、「潔さ」が近いだろうか。
何か行動をするとき、
それは自分の価値観に基づいて、当然すべきと考えることである。
その結果が良かろうが悪かろうが、最善を尽くしているはずで、
その結果はただ受け入れるしか仕方のないことである。
続く行動は、改善の余地があるかどうかを考えること、
それは結果の良し悪しには基本的に無関係な終わりのない道である。
「探求 · 探究」あるいは「極道("反社" の意ではなく)」
と言ってもいいかもしれない。
そのような行動原理の根底にあるのが「謙虚さ」であると私は考えている。

しかし、このような考え方は「古風」だと言われるかもしれない。
確かに、私は「他人への感謝」を表現するのがあまり得意ではない。
ここでいくら私が能書きを垂れたところで、私の考える「謙虚さ」が、
逆に「自分は一人でやっているからすごいだろ」という類の「傲慢さ」と
とられる可能性すらあると思う。
そんな世界においては、私はもう誰にも関わることなしに、
ただ人知れず死んでいきたいという思いがあるだけである。