前回に引き続き、『Super-Multi-Coated TAKUMAR 200mm F4』のカラー版。
拡大すると色の境目に少し違和感があるが、パッと見た感じでは綺麗に写っている。
これも液晶モニターでは見栄えがよかったのだが、PC 画面に出して拡大してみると少しもやっとした感じがあった。液晶モニターは当てにならないものである。(拡大しなければかえってそのもやっと感のおかげで綺麗に見えているような気もする。)
最近、液晶モニターに関してはあまり信用していなくて、本当に確認したい時はわざわざ画像を液晶モニター上で拡大表示しなければならない。
そんな面倒なことはいちいちしていられないので、たぶん撮れたなという感覚を信用するしかない。
撮れているか不安になって2枚撮ると、大体2枚目の方が上手く撮れていないことが多い。
心理的なブレが、シャッターを押す指にも影響しているのだろうか?
では液晶モニターで何を確認するかといえば、明るさが大体あっているかだけを確認している。
カメラの測光によって明るさが分かるのでこれに依存しっぱなしだが、たまに条件によっては変な結果になることもある。明暗差がある上に逆光のような場合である(例えば、木の幹を中心にして裏に太陽があるような)。
少し暗めの方が好みなのと、後で修正すればよいかなということで、露光を -2 から 0 の間くらいになるように調整している。
植物 · 花 · 昆虫というものは撮っていて飽きるということがない。
趣味というのは、興味のない他人からすると、到底理解できないというものが多いように思う。
カメラにしても毎日持ち歩いていると、なんでいつもカメラを持っているのですか、とか聞かれたりするし。
ごく普通の人からすれば、到底理解できない趣味なんだろう。
スマホがあれば撮れるものを、わざわざ嵩張るカメラを持ち歩くとか物好きだなと思われているのかもしれない。
すでにカメラを持っているにも関わらず、新しいカメラを買い足すとか理解できない、と思われているに違いない。
それは全くその通りだということは自分でも分かっている。しかし、いつからこんなにカメラ好きというか、写真を撮るのが好きになったのだろう?
本当に小さい頃は、見たものを自分で描いて再現したいという欲求があった。
上手く描ける時もあれば難しいということもあったが、要するに、物の構造を観察して描くことを通じて理解するのが楽しかったのかもしれない。
大きくなるにつれて、なかなか描くことに時間を割けなくなってきて、あまり描かなくなってしまったが、自然物の造形には尽きることのない興味がある。
それで、今描いている時間はないけど、とりあえず保存しておいて後で時間があるときに詳しく見たいなと、単純に言えばそんなことである。
基本的に写真で何かを表現したいとか、そういう訳ではなく、記録として保存しておきたいのである。
そして、どうせ保存するのならば、美しく保存したいというだけである。
他人の写真に興味がないのは、自分の興味を持ったものを保存したいからなのかもしれない。
同じ種類の対象でも、自分が実際に見て、自分が心地よいと思うような形式でなければ意味がないのである。
初めはそのように単に記録を残すという目的が、いつの間にか、よりよい状態で記録を残すための、カメラの技術的な面にも興味が広がった。
というか、目で見たのとほとんど同じような絵が一瞬で保存できるとか、そもそも技術として面白すぎる、と思うのだが、若い人はそれも慣れすぎて普通のことに思うのだろうか。
子供の頃、何か美しいものを見た時、この感動やこの光景をいつかは忘れてしまうのではないかということに対して、ある種の恐怖感を抱いていたことを思い出す。
そして、絶対に忘れないようにできるだけ目に焼き付けようと努力したものである。
だから、子供の頃からカメラには並々ならぬ憧れがあったのである。
カメラも高いが、昔はフィルムカメラで、フィルムの値段もばかにならない。
フィルム一巻きでせいぜい24枚とか36枚である。
何を撮るべきか、対象を吟味して、これだと思うものを慎重に選んで撮影したものである。
そこら辺に生えている雑草を撮るなど、あり得ないことであった。
この玉ボケやばくないですか?めちゃくちゃ綺麗だな。
本当はありふれたものの中にもある種の美しさはあるのだけど、金銭上の問題でそれを撮ることが憚られる、という状況であったのだ。
それが今やデジタルカメラでフィルムを買う必要がなくなり、撮影枚数を気にする必要がなくなったのである。
なんと恵まれた時代だろうか。
失敗しようがしまいが気にもかけずに、ほぼ無限にシャッターを切り続けることができるのだから。
カメラさえ買えば、もう好き放題に撮れる訳である。
こんな楽しいことはないではないか。
これは不自由な時代を経験した世代が持つ特有の感情なのだろうか?
デジタルになることによって絵作りの方法は格段に理解しやすくなったと思う。
カメラ内の光度計をどれくらい信用してよいのかとか、そこから外したらどうなるのかとか、フィルムではすぐに結果を確認しないことが多かったので、実験しても忘れてしまうことが多かった。
それを忘れないようにするには、何かにメモをする几帳面さが要求されるが、メモしたとしても後でこれは何のメモだったかなんてことはよくあることで、結局よくわからなくなってしまう。
現像を自分でやったことがないものだから、そのやり方がどんな感じで絵に影響を与えるのかモヤモヤしたものが残る。
フィルムカメラが持つ味というのは確かにあるのだと思うが、実験のしやすさの点ではデジタルカメラはなくてはならないものであると思う。
絞りやシャッタースピードを変えた時にどのような違いが生じるのか、撮ったその日に答え合わせができるのは学ぶ上で非常に効率的である。
レンズの焦点距離が撮影に及ぼす影響も、文字から頭で学ぶことはあるのだが、実際撮ってみて感覚的に納得するのとは大きな差がある。
とりあえずいろいろ撮ってみて、すぐに確認して、この条件ではダメだったのかと、落胆しながら学んでいくことが多いと思う。
そのような実験と答え合わせも、拡大しなければ気がつかない、ということが結構あり、フィルムのデータを眺めていても気がつかないこともありうるのではないだろうか。
拡大しなければ別にいいんじゃない、と言えばそれまでだが、私の性格的には拡大しても全く問題がない写真を撮りたいなと思う。
手ぶれ補正にしても、まずはそれを使わずに手ぶれしない条件の感覚をつけたいと思う。
それを知った上で、本当に使わなければどうにもならないという状況で手ぶれ補正を使ってみるとか、実際にそれがどれくらい有効なのかをまず検証したい。
焦点距離と手ぶれに関して言えば、望遠レンズを使っているとフレーミングしながら自分の手がこんなに動いていたのかということにまず気づかされる。
広角レンズばかり使っていたら、自分の手の振動をなるべく抑えるような努力をしようとは思わないかもしれない。
そういう意味では 200mm 以上の望遠レンズはとてもよい練習になる。
ピント合わせに関しては、望遠レンズでは被写界深度が浅くなる、という説明はよく見かけるけれど、実際、マニュアルフォーカスで合わせてみるとなかなかピントの山が掴みづらいというのは本当によく分かる。
撮影対象との距離のとり方は、使い始めの焦点距離は慣れるまでは大変だけれど、感覚が掴めてきて立ち位置を決めてファインダーを覗いた時、フレーミングが思った通りになっていると楽しくなる。
色が少し変なところがある。ちょっと面白い。
最短撮影距離というのが望遠の場合は長いことが多いように思うが、これが長いと撮影の難度は上がるように思う。
光のとりこみ方を考える上で、対象と光の入り方の角度というのが重要になってくるのだが、距離をとらないといけない場合、動かなくてはならない範囲が広くなり、実際ベストな位置に移動できない確率が上がってしまう。
広角レンズはフレーミングの難しさはあるけれども、撮影する際の技術的な面ではそれほど難易度を自覚する要素が少ないように思う。
望遠レンズは、カメラの持ち方、立ち位置の決め方、ピント合わせ、などの基礎的な点に不備があると、それが全て画質に出てしまうので、ごまかしが全く効かないというシビアさがある。
写真の勉強をするのなら、望遠レンズをマニュアルフォーカスで撮るのが一番練習になりそうである。
望遠レンズで練習していて、ふとマクロレンズの存在理由が分かったような気がする。
望遠レンズは狭い領域を切り取ることになるので、絵的にはマクロレンズに似たような感じになる。
マクロレンズも被写界深度が浅いという点では同じかもしれないが、近寄れるという点と焦点距離が比較的短いという点では、望遠レンズよりも撮影しやすいと言えそうである。
つまり、望遠レンズの苦手とする近距離撮影を撮りやすくしたのがマクロレンズではないか、ということである。
望遠レンズの使い方として、対象から距離をとりつつ、小さいものを大きく写したい、というのが本来最も理にかなった使い方ということだろう。
このレンズの最短撮影距離は 2.5m で、少し長いなと感じる。
最短に近いくらいの距離で撮ってこのくらいの感じだと思う。
最短距離で撮影したい時はピントリングを最短にあわせて、足でピントが合う位置を探したりする。
マクロレンズに慣れてしまうと『smc PENTAX-DA 1:4-5.8 55-300mm ED』の最短撮影距離 1.4 m でも結構撮りづらいなと感じたものだが、2.5 m となるとさらに 1 m も離れなくてはならない。
事前にどのくらいの場所から撮れそうかなと段取りを考える必要があるが、どんなレンズでも慣れればなんとか撮れるようになってくるものである。
最近よく見かける鳥、画像検索するとガビチョウという中国の鳥のようだ。
中国ではポピュラーな飼い鳥らしいが、結構大きな鳥だし、見ているとかなり活発に動いていて飼うのは大変ではないのかなと思ったりする。
囀りだすと結構ずっと囀り続けているが、声が大きいので日本では騒音と捉えられ、人気がなくなったとか。
外で囀っているのを聞くくらいだったらまだ我慢できるかもしれない。
家の中であの音量で鳴かれたらたまったものではないだろう。
中国と日本では鳥の飼い方が違うのだろうか?
外で見る方がなんだか気持ちの良い鳥である。
今となっては完全に季節外れだが、撮っていた頃はちょうど蝉が羽化し始めた頃だった。
ただ単に散歩に出かけるのはどうも気が乗らないのだが、写真を撮るという目的ができるだけで早起きできるのが不思議である。
実質的にはほぼ散歩で、ついでに写真を撮っているようなものなのだが。
カメラというのは本来そういう嗜好品なのかもしれない。
日常に少し彩りを加え、それがあることで何か行動を起こすきっかけになったり、新たな気づきを与えてくれるような装置である。
同じ散歩コースの見慣れた景色だとしても、それを撮り続けることで、季節の移り変わる様をより明確に感じることができる。
よく見かける鳥がガビチョウという名前であったことも、写真を撮ったから分かったことである。
鳥の名前の特定は画像検索で分かったことではあるが、それ以前に目視だけではその鳥がどんな特徴を持っているかもなかなか判別することはできなかっただろう。
その鳥がどんな顔をしているとか、どんな鳴き方をするとか、そのような観察があって興味が湧いてくるというのもある。
以前はそれほど興味がなかったが、鳥も撮ってみると、いろいろな発見があるので面白いなと思う。
静物ばかり撮っているとシャッタースピードを意識することはほぼ無かったが、鳥を撮るとなれば意識せざるを得なくなる。
しばらくは身近な鳥の撮影で楽しめそうである。
と言っても、鳥はなかなか見つけるまでが難しいというのがある。
タイミングが合わないと全く遭遇しないのだが、鳥の生活をよく知っていれば案外会えるものである。
会えない時はその辺の植物を撮っていればよい。
カラスは割とよくいるので、あまり撮ろうという気にもならないのだが。
何となくシャッターを切ってみたり。
まあ、記録写真なのでとにかく撮ったらよいのである。
呼吸をするのと同じくらいの感覚で、ちょっと良いと思ったらシャッターを切る。
大体1時間ごとに 100 枚のペースで撮っているので、36 秒に 1 枚撮っている計算になる。
実際は一箇所で数枚は撮るだろうから、3分ぐらい毎に撮影対象に出会っている計算かもしれない。
どちらにしても、外を歩いていれば面白いものは案外たくさんあるということである。
雀もよく見かけるのだけど。
小さいので、案外肉眼ではよく見えていない。
撮り比べてみると、案外個体差があるということに気づく。
人の顔にもいろいろあるのと同じように、鳥にもいろいろな顔があるのだなと。
羽毛が綺麗なものもいれば、何だか汚いなというのもいる。
若鳥もいれば大人の鳥もいる。
威嚇でもしれいるのか、羽毛をひろげたり。
撮っているときはゆっくり観察している暇もないのだけれど。
改めて見返してみると、なかなか面白いものがある。
鳥の場合は、トリミング必須なのだが、まあよく写っているのではないだろうか。
鳥を撮るのに 200mm はやや足りないように思うが、持ち出しやすさを考えるとなかなか良い。