前回に引き続き、PENTAX K-3 III と Super-Takumar 55mm F1.8 の組み合わせ。
絞りは開放 F1.8 縛りである。
少し離れて撮ると、やや背景がうるさく感じるだろうか。
ボケの具合で背景のうるささを感じることはまれにあるのだが、F1.8 の割には背景の輪郭がまだ残っているようである。APS-C で撮っているからだろうか。
暗い部分の色再現は秀逸である。コントラストがやや低めに映るのだろうか。
上の写真はピントの山がよくわからず、半分諦めていたがわりとよく映っている。
玉ボケも美しく出ている。
色合いが、季節感をよく映していてすっきりとした気持ちよさがある。
実際には少し汗ばんでいたが、写真を見る限り涼しさを感じるようである。
こういう緑と青空のコントラストの写真はたまに撮りたくなるのだが、何も考えずに撮って何の変哲もない写真なのだけれど、単純にきれいだなと思う。
魚影がみえるだろうか。写真ではちょっとわかりずらいようである。
黄菖蒲(きしょうぶ)というらしい。
アヤメ科で Iris はギリシャ語では虹の意味をもつとか。
葉の照りが良い。
黄菖蒲はヨーロッパや西アジア原産の植物らしく、「要注意外来生物」の一種だそう(Wikipedia より)。
フランスギクだろうか、マーガレットにも似ているが花弁がフランスギクの方が長いように思う。
このつぼみが何だろうと思っていたら、フランスギクのもののような気がする。
よく目立ってきれいだが、外来の植物が結構多いようだ。
園芸で恐らく育てやすいという理由で外来の花をよく植えるようであるが、個人的には見るからに外国の花という見た目のものはあまり好きではない。
アヤメ科の花は見た目がアジアっぽい感じがするので好きである。
調べていたら「菖蒲」という漢字をアヤメ科の花に使用したりするが、「菖蒲湯」につかう「ショウブ」はアヤメ科とは別の種だそうである。
見た感じでは葉の形も似ているような気もするが、古くはサトイモ科に分類されていたらしく、「ショウブ」はそもそもアヤメ科のような花をつけないのかもしれない。
「いずれ菖蒲(アヤメ)か杜若(カキツバタ)」という慣用句があるそうであるが、確かにいずれの花も同じくらい美しい。
尾形光琳の代表作に『燕子花図(かきつばたず)』という屏風があったが、紫色の花が描かれていたと思う。
アヤメもいいが植物というのは、雑草でもなんでも、よくよく見てみると美しい形をしているものである。
剣のように鋭くツヤツヤとしている。
モノクロだとわからないのだが、この苔を撮ろうと思ったのである。色の情報もやはりものの認識という点で物凄く重要だと実感する。
森の中は天然のスポットライトがあるので、なかなか楽しい。
結構シャープに見える。コントラストのせいもあるのか。
ピントがあってるかどうかなと心配になった一枚。中心が明るいと、ちょっとわかりずらいのかもしれない。というかファインダー中心の □ のガイドが邪魔な気がする。
シームレスなボケでよい。今、「シームレス」って言葉がなかなか出てこなかった。言葉は使わないとすぐ忘れる。というか「レス」はよいとして「シーム」ってなんだ?
シームは英語で seam(継ぎ目)だそう。この単語単体で出てきたら分からなそうな単語である。
継ぎ目(seam)が無い(less)でシームレス。もう「連続的」でよくないか?
青と緑のコントラストが美しい、などというけど、写真でコントラストというと明暗の差のことをいうので、なんだか紛らわしい言い方だなと思う。
こういうのが好きでなのである。この写真でコントラストが強いのは事実なのだろうけど、いわゆる「コントラスト強めの写真」のイメージとは異なる。見えてる部分のコントラストの話を普通はするのだろう。
私の中で思い出せない言葉ランクの上位は「トレードオフ」である。
「両立できない関係性を表す」言葉で、「何かを得ると何かを失う」、という関係性。
それで、ちょうどいい最適なところを探そうねという話で、割と使う機会が多そうなのだが、なぜかいつも思い出せない。
それで「良い面と悪い面のバランス」などと検索しても出てこない。「トレードオフ」は関係性に関する用語だから、当然である。
文脈の中でぼんやりした言葉の意味しか理解していなかったことがよく分かる。
「片方をよくすると、片方がわるくなる」と検索すると、出てきた。
トレード(trade)は「交換する」で、オフ(off)は「離れて」ということだから、「交換すると離れてしまう」という意味合いなのだろうか。
言葉の意味するところからすれば、「トレードオン」といっても同じはずであるが。
要するにオンとオフの両方をいうのは面倒だから片方だけ言うことにしたのだろうが、「トレードオンオフの関係」と言ったほうが、分かりやすくはないだろうか。
誰かが使い始めて、ゴロが良いので浸透してしまったのだろう。
竹の質感と色がとてもよく再現されている。
「トレードオフ」はビジネス界隈でよく使われそうな雰囲気があるので、それを使うとその界隈の人という雰囲気が出る気がする。
「トレードオンオフ」で検索すると、「トレードオン」なる言葉がでてきた。
「トレードオフ」をネガティブな考え方と解釈して、プラス思考的なイメージの「トレードオン」を提唱している人がいるとか、いないとか。。
確かにイメージ的に「トレードオフ」はネガティブな感じがするが、語の意味を考えるとそれは違くないかと?
関係性を表す言葉であるのだから、その言葉に「ネガティブ」とか「ポジティブ」とか感情的な要素を入れるべきではないのである。むしろ「中立的な」概念だと思う。
そういった意味では、「トレードオフ」という言葉自体がやや不完全な言葉であると言えそうである。だから覚えられないのだろうか?
「トレードオフ」の間違った言い換えとして使われる言葉に「二律背反」があるが、「二律背反」の言い換えは「矛盾・パラドックス」があり、「トレードオフ」とは似て非なる言葉である。
厳密にいうと「二律背反」という言葉は、「論理学や認識論で使われる述語」だそうなので、日常的な意味での「矛盾・パラドックス」とも違うようであるが。
「二律背反」:二つの法則が相互に両立しないこと。(wikipedia より)
風が強くて奇跡的にそこそこピントが合った。開放 F1.8 でよくやったものだと思う。
ビジネス界隈なのか、どこ界隈なのか分からないが、言葉の上っ面だけ聞こえを良くして訳の分からないトレンドを生み出そうとする人たちは何を目的としているのだろうか?
講演などで儲けているのだろうか?
別に何を仕事にしようとその人たちの勝手だが、言葉の使い方には気を使ってほしいと思う。
「トレードオフの考え方はよくないのでこれからはトレードオンにしましょう」とか、言わなくても同じことを別の言い方でちゃんと説明できるはずである。
この種の人達は聞こえの良い言葉だけでなく、「一見分かりやすそうに見える図解化」という手法も駆使してくる。これらは、私の中ではある種の詐欺的方法と認識している。
これからは「トレードオフ」とは言わずに「トレードオンオフの関係」といいましょうと主張したところで、そうはならないのだろうけども。
むしろ、「トレードオンオフの関係」と言うのだったら、「片方を良くするともう片方が悪くなる関係性」と言っても大して変わらないのだから、そう言えばよい。
カタカナを使うとなぜか「スマートに見える問題」というのは日本文化に深く浸透しているようである。
というか、私の主張している「トレードオフ」における「オフ」という語の理解もただの推論であって、正しい保証も何もないのだけれども。
なかなかいい色が出ている。
これもなかなか良い。
日本人というのは語の定義を厳密に理解せずに雰囲気で使用しているようなところがないだろうか?
語の定義を理解するのではなく、それがどのような文脈で使用されているかを理解している、と言ってもいいかもしれない。
時代によって移り変わる若者言葉も構造的に似たようなところがある気がする。もっとも、こちらは日本に限った話ではないのかもしれないが。
若者は使い古された言葉を使うのを嫌うので、自分たちだけで分かる「隠語」のような新しい言葉を作り出す。
それらの言葉は、普段交流が少ないコミュニティには使用されている文脈例に関する経験がないので、全く理解できない。
それで年配の人達が若者の言葉はわからんと言うのは、意味がないというか、若者からすれば古臭い言葉を使ったのではつまらないからそうしているだけのことだろう。
若者と交流がある人であれば文脈が理解できるだろうから、若者と話すときにそのような言葉遣いになったとしても特に変なことではないと思う。
年配の人が、他の年配の人と話すときに、若者言葉が出てしまうというのは、少し違和感があるかなと思う。
しかし、最初違和感があっても使われる頻度が多くなると、割と普通に受け入れてしまうようなところがある。
口語における新しい言葉の流行りと廃れの変遷というのは、言語における共通した性質なのかもしれない。
「見える化」という言葉を作ったのは恐らく若者ではないのだと思うが、最初に見たときはずいぶん気持ちの悪い言葉だと思ったものである。
さすがにもう廃れてきて、普通に「可視化」と言うことが多くなったと思うが、最初の吐き気がするような拒絶感が嘘のように今では無反応である。
「うざい」、「きもい」、「きしょい」なんて言葉は今も使われているのだろうか。
「うざい」という言葉は当時の年配の人の一部にはたいそう評判が悪く、「うざいというやつがうざい」とまで公言する人もいるくらいであった。
私の場合は、なぜそこまで毛嫌いするのか正直理解できなかったが、案外使いやすい言葉なのでちょっとした瞬間に「うざっ」と今でも言ってしまっているかもしれない。
私からすれば「うざい」という言葉よりも、「見える化」という言葉の方がはるかに「きしょい」し「うざい」言葉だと思うのだが、感性の問題なのだろうか?
最近の若者言葉は、これまでとはまた違うフェーズに入っているような気がする。
これまでは何となく文法的に体裁は保った範囲の言葉であったように思うのだが、最近の若者言葉は意味の塊の途中で端折ったりするので、ウェブで検索しないと全く理解不能である。
使われている文脈の例に遭遇しても全く理解できないので、暗号と言ってもいいくらいではないかと思う。
若者同士では文脈で通じ合っているのだろうか?
だとすると、私もずいぶん年をとったということなのかもしれない。