前回に引き続き、PENTAX K-3 III と Super-Takumar 55mm F1.8 の組み合わせ。
前回までは、絞りは開放 F1.8 縛りであったが、絞ったらどうなるかということで今回は F8 縛りの撮影である。編集でモノクロに変換したバージョン。
撮りたいものに合わせて F 値は変えればよいのだけど、オールドレンズの場合データの記録が自動で行えない部分もあるので、特性が理解できるまでは 1 日ごとに固定で練習するのは記憶にも残るので良い。
しかし、そうしていると、ここでは本当は絞りたいとか、開放にしたいとか、あるのだけれど、そこはぐっと我慢して、何とかその日はその条件でやり過ごすことになる。
それで、やっぱり絞ったバージョンも撮っておきたいな、というときには、また出かけて行って同じような写真を撮る。
同じ場所に日を空けずに2回も行くというのも少し面倒なのだが、撮っておかないと気持ちが悪いというのもあるし、行けば案外別の発見があるものである。
身近にちょうどよい散歩場所があるというのは素晴らしいことである。
さすがに一回目ほど念入りに歩き回る気にはなれないので、見る場所を絞って効率的にまわる。
久しぶりに行くと道をすっかり忘れているのが常だが、二日連続で行けばさすがに少しは覚えるというものである。
また、しばらくすると忘れてしまうのだけれど。
色が黒い対象と言うのはどうも撮るのが難しいなと思う。
よく見ないと気付かなそうである。
絞るとファインダーが暗くなるので、明るい時とはまた別のピントの合わせにくさがある。
光と影の感じがよい。こういう木の幹がなんかいいなと思う時がある。
紫蘇かな?生えてたり生えてなかったり。今、「生える」って変換をこれであってたっけと思ってしまった。漢字を手で書くことが少なくなった日常。
ちょっと散漫だった。スポットライトはあるが、背景が明るいので。
こういうのは好きですね。
蕾の形が洋物感出してる。
これは洋物ですわ。
この場所は最初は来なかった。こういう発見が 2 回目にはある。
特に面白くも無いのだが、時々撮ってしまうやつ。
「やつ」って言葉、私は多用する傾向があるんだけども。
よくよく考えてみると、あまり良い言葉では無いのかなと。
私は別に悪い意味で使っているつもりは全く無いのだけれど。
改めて調べてみたら、「人を卑しめて言う語」とか「物事をぞんざいにさして言う語」、「鳥獣などを卑しめて言う語」という意味がある。
恐らくそれらをベースにして広がった意味に「目下の者に親愛の意をこめていう語」、「形式名詞『こと』、『もの』をくだけて言う語」と言う意味がある。
要するに、「やつ」と言う言葉を使うと、少々荒々しくて、粗野で、投げやりな感じが出せるということになるのだが、私は別に意図してこの語を使っている訳ではもちろんない。
使う側としての私は、人にも物にも使えるから使いやすいというので使い始めたのだと思うが、解釈する側としてはどちらの意味で使っているか判断が必要になるので、時々怪訝な顔をされる事がある。
人にも物にも使える上に、良い意味にも悪い意味にもとれることになるので、解釈する側はいろいろな想像力が必要になるのだろう。
こちらの話のトーンが微妙だと、さらに解釈が難しくなると思うのだが、私の話し方というのが実に分かりにくいようなので、たまに自分の意図とは逆に(悪い意味として)解釈されることが間々ある。
そんな時に、この人は私をそのように捉えていたんだな、と感じる事がある。
あまり親しくない間柄だと、その人がどんな考え方をしてそうだとかを見た目のイメージなどで先入観として持つことは私自身多くあるのだが。
良い悪いのどちらにもとれる語を使った場合、経験的に高確率で悪い意味で解釈されるのは、一般的な事なのか、私の場合に特に当てはまるのか、統計的なデータを誰かとってもらえないだろうか。
あるいは、解釈する側の人が、人を性善説で捉えているのか、性悪説で捉えているのか、というのも関係しているのかもしれない。
意図して使用していないと言ったが、性根が大雑把なたちなので、細かいことは気にしていないというか、デリカシーがないというか、まあ自分に合った言葉なのだろう。
それで、解釈する側が間違えないような言葉を選んだ方がよいですよ、ということになるのだろうが、そうすると喋らないといけない言葉が増えるので、面倒だなとなる。
私は書くことに比べると、喋ることに対して、ものすごくハードルが高い。
そうは言っても、口は災いの元であるから、言わざるか、言うならば誤解の無いような言い回しを考えないといけないなと、反省する毎日である。
明暗が綺麗である。
葉の裏側はなぜかツヤツヤと光っている。
朴の木(ホオノキ)は大きな葉と花が特徴的で、どこか太古を感じさせる雰囲気があり好きである。
「ホオノキ」の名前が分からなくて、「トチノキ」で調べたら違う植物だった。
それで twitter でフォローしている方の中に「朴」を日本画で美しく描く方がいたのを思い出した。
絵のタイトルから「朴」だと分かったが、読み方が分からず。
「朴」を検索にかけて、「ホオノキ」にたどり着いた。
その作家さんの個展が今年の3-4月にあったのだけれど、忙しかったのか行くのを忘れてしまい、今更ながら少し後悔している。
そんな昔ながらの検索方法をしなくても、今では google の機能に画像検索というのがあるのを思い出した。
試しに使ってみたところ、画像をアップロードして範囲を指定するだけで関連する画像と名前が出てきた。
このツールを使えば、これは何の植物だろうとか、何の虫だろうとかで、もやもやしていたのが解消されるかもしれない。
twitter だと「この植物は何かご存知の方いらっしゃいますか」というツイートをたまに見かけるが、あれはあれでやりとりとしての楽しさがあると思う。
そこで「google 画像検索で分かりますよ」と言ってしまったら、それはずいぶんつまらないことだと思うが、現実世界ではそういう人も結構たくさんいる気がする。
私自身余裕のない時はそのような傾向があるように思うので心苦しいのだが、質問するというのは、単に答えを求めている訳ではないという場合もあるということらしい。
なんて文章を書きながら、何だか AI が人間を分析しているような文章だなと思ったりする。
人は性格上、論理的に考えるのが得意な人とそうでない人がいるようで、日本語の性質を英語と比較すると、何となく日本人は論理的に考える人は少数派なのではないかなと思ったりする。
私はどうしてかは分からないが、論理的に考えようとすればできるタイプのようで、そのようにして物事を考えていると合理的で人間味のない結論に至ったりする事がある。
論理的に考えることはできても、いつもそれをやっている訳ではなく、直感型というか自分で考える気がない時は何も考えておらず、自分の好き嫌いで結論づける事が多い。
そんな訳で、なぜそうするのかと聞かれても、自分がそうしたいから、というだけのことで、理由などないのである。
一方で、人と話をする時には言語を使用する関係で、思考が論理的になりがちである。
それで他人の結論について、論理的に考えてどうのこうのと話していると、人間味がないとか、そうじゃないじゃん、とか言われたりするのである。
別に、私もその結論に至る理由が分からない訳ではないと思う。ただ、言語というものが論理的な性質を有しているために、そして私がたまたまそのような文章の組み立てをする傾向が強いために、そうなるだけのことである。
口は災いの元。「言語は人を別人格にする」
格言的に言ったらそんなところだろうか。