前回に引き続き、PENTAX K-3 III と Super-Takumar 55mm F1.8 の組み合わせ。絞りは開放 F1.8 縛りである。編集でモノクロに変換したバージョンの続き。
前回、明るい場所で開放でとった写真にピントが合ってないものが多かったというはなしであったが、写真において意図する場所にピントがあっているというのは最低限必要だと思う。
ピントがあっていなければ、撮影者が何に注目しているかが分からなくなってしまう。
もちろん逆に、曖昧な、境界が無いような表現をしたいという、限られた場合においてはピントがあっている必要は無いということになるのだろうが。
しかし、そのような曖昧な表現を写真でわざわざする必要があるかということもある。
抽象を表現するには絵画的な手法の方がもしかすると良いのかもしれない。
いや、絵画と写真では圧倒的に違う点がある。
それは一つの絵に費やす時間である。
私が 100 枚の写真を 1 日で撮るとして、100 枚の絵を描くとしたらもしかしたら 1 年かかるかもしれない。
そのような 1 枚の絵にかかる時間の差というのは、どのようなものを表現するかにも大いに影響してきそうである。
写真というのは実際に存在した光の投影である、というのが絵画的な表現とは決定的に異なる点である。
絵画的表現においては、実在するものの像を投影していたとしても、必ず描き手の感性とか主観が介入する。
写真においては、撮影者の意図は反映するとしても、写っているもの自体は現実の光の投影そのものである。
だからこそ、写真と絵画は異なる表現を追求することができるのだろう。
現実にこんな事があったんだという意外性のようなものが写真では表現できる。
現実世界の面白さを写真は表現できる。
散歩をしている時のちょっとした発見を写真は表現できる。
曖昧な表現にしても、現実の世界をベースにしてという条件付きであれば、絵画よりも圧倒的に速いスピードで量産する事ができる。
では、私が絵を描くとしたら何を描くか?
考えていると難しいが、絵筆を持てば意外と何か出てくるかもしれない。
実際に描いてみて、なぜその絵が出てきたのか、というのが面白いかもしれない。
なぜなら、それは掴みどころの無い自分自身の内面の投影であるからである。
最近では、AI も絵を描くという。
技術革新の成果として面白半分に眺めている分には興味深い事である。
しかし、AI の絵というのは、やはり人が描いた絵を見るのとは少し見方が異なる。
それは、AI にまだ人格とか自我というものが存在しないからだろう。
AI に人格とか自我が存在するようになったら、AI の描く絵の見方も変わるかもしれない。
AI が絵描きの仕事を奪うかについては、商業的な絵というか、クライアントの具体的な需要がはっきりしている絵を作成する仕事は現段階の AI に奪われ始めているのではないかと予想する。
では、将来的に AI が人格や自我を持ったとして、そのような AI が人間の芸術分野の絵描きの仕事を奪うかというと、そうはならない気がする。
芸術分野の絵の場合、自我を持った AI 画伯が一人の画家として、人間の画家の集団に加えられるだけであるので、仕事を奪うことにはならないだろう。
AI の自我、『攻殻機動隊』において出てくる「ghost」にあたるものだろうか。
少し前に『攻殻機動隊』を今更ながら見てはまっていたのだが、ちょうど現実の世界が作中の世界観に追いついてきた感じがして、タイムリーな感じがする。
『攻殻機動隊』がリアルタイムで放映されていた当時に見ていたら(20-30年前だろうか?)、今ほど面白く感じなかったかもしれない。
あまりに先の世界を見せられても、私の場合、実感が湧かないのである。
もしかすると近い将来実現するかもしれない未来の話、それくらいがちょうど良いのかもしれない。
『ソードアートオンライン』も描かれている時代設定がちょうど良い気がする。
タチコマやアリス、ユージオが自分の存在について考察したり、悩んでいるところを見ると、なぜか共感というか親近感を感じてしまう。
当事者としては、悩みを抱えるというのはあまり気持ちの良いものでは無いけれど、共感に基づいた他者とのつながり、という点では案外重要なのかもしれない。
まあ、悩みもこじらせてしまうと、周りの人間は面倒くさいだけなのだけれども。
だいぶ話が脱線したようだ。
写真におけるピントの話をしていたのである。
基本的に写真においてピントがあっているのは重要で、私としては、ある程度シャープな絵が好きである。
そういう意味では、今回の写真は全部失敗かなと最初は思った。
が、しばらく見ていたら、拡大しなければありかなという気もしてきた。
シャープというのは、像がモヤッとしていなくてはっきりしているという意味で言っているのだが、拡大しても像の境界がはっきりしている時にシャープだなと感じる。
しかし、最近、拡大しない時の絵の見え方と拡大した時の絵の見え方は別物ではないかということを感じ始めた。
これは実際に我々が肉眼でものを見るときに、微細な構造が見えていないのと同じであるが、拡大した時の像が現実の様子を正確に写していなくても、案外拡大しなければ問題ないという場合がある。
最新のデジタル用レンズの場合、拡大すると細かいところまでちゃんと写っているのが分かる。
一方で、オールドレンズの場合、拡大した時に明らかに微細な構造は写っていないことがある(写っている場合もある)。木の幹の微細構造などがその例である。
デジタル用のレンズでも、拡大するとわずかな手振れが生じている場合に、拡大せずに眺めていると、むしろ解像感を感じる事がある。
このような、拡大した時とそうでない時で見え方に違いがあるのは単純に面白いなと思った。
カリカリに解像していなくとも、ぼんやりとした輪郭が掴めれば、絵としては見ていられるし、実際の目で見る風景にむしろ近いのかもしれない。
オールドレンズの味というのはこの辺に関係しているのかもしれない。
よくオールドレンズの特徴としてやわらかいと表現される。
画像編集ソフトによくある「ソフトな(柔らかい)」表現は、どうしても少し嘘っぽい画像になるので私はあまり使用しないが、レンズの特性でそうなる時は何となく説得力がある。
というか、開放 F 1.8 にしては被写界深度がそれほど浅くないのに少しびっくりしている。
レンズの中には開放F値の時に被写界深度が極端に浅くて、不連続に見えてしまうものがある。
マクロレンズの中にそんなものがあった気がするが、このレンズは連続的に像のピントがぼやけていくので違和感がない。
ボケについても、レンズによっては荒々しく像が歪むものもあるが、このレンズは比較的おとなしいように思う。
使い方に難しいところはあるが、うまく使えばなかなか良いのではないだろうか。
個性は弱めであるが、使い込んでいくと新たな一面が見えるかもしれない。