"photobashiru" ...

写真を中心に、ほとばしってるものを。

言葉と寂しさの関係

年の瀬 · 新年ということで、家の中の掃除をして過ごしている。
10~12月はほとんど掃除に時間がとれなかったので、フローリングの床には
小さい頃に西部劇で見た荒野をころがる埃玉のようなものが散見された。
できれば昨年中に終わらせたかったのだが、到底終わりそうもないので、
適度なところで妥協することになるだろう。
窓の拭き掃除は、もう少し暖かくなってからやることにした。
読書や文章を書くための机も、読もうと思っていた本、いらないチラシ、等で
うずもれ、ここ数ヶ月は座ることすら無くなっていた。
今日、この机の上のものを一度本棚に戻したり、
積もった埃を拭き取ったりして、
ようやくリセットされたような心持ちになった。

高校生から大学生の一時期、
年末や正月になったという実感がないと感じていた。
思うに、小さい頃に恐らく両親または小学校がお膳立てしてくれていたような、
年末や正月らしいもののイメージが強すぎて、
そのように感じたのかもしれない。
最近では、家の掃除をすることで、
何となく自分なりの年末 · 正月の実感が得られるようになってきたように思う。
しかし、今ふと今回の年末には除夜の鐘の音を聞きそびれたことに気づいた。
晦日もどこか出歩いていることの方が多くなったので、
紅白もずいぶん見ていないように思う。
ゆく年くる年』も見なかったし、年越し蕎麦も食べなかった。
私的には、実家で年越し蕎麦を食べながら、あの番組を見ていると、
最も年明けの情緒が感じられるので、何だか少し損をしたような気もする。
あの番組が嫌いだという人もいるが、どうしてなのだろう、
私にはよく理解できない。
子供の頃は、年末 · 正月にテレビをよく見たものだが、
最近ではがやがやとうるさいのでほとんど見ることがなくなった。
意外に多くの人が楽しみにしている箱根駅伝は、
昔から全く興味が湧かない。

晦日にどこかへ出歩きたくなるというのは、
寂しさとか侘しさのような感情があるからなのかもしれない。
友人とどこかへ出かけるのも楽しいが、
一人 Bar で過ごすのも案外同じような人達がたくさんいて、
いつにも増して妙にアットホームな感じがしたりする。
特に何かを話さなくても、
時間を共有しているという感じが心地よいのかもしれない。
こういう薄い関係性というのが実は一番リラックスできたりする。

干支が三回まわった年齢になり、
以前に比べるとずいぶんと情緒が安定してきたように思う。
もともと一人遊びが好きな性格だが、
一層一人の時間が楽しめるようになってきた。
もしかすると、これには文章を書く習慣が関係しているのかもしれない。
思い返せば、高校生から大学生の頃、何かやりきれない思いがある時、
情緒が不安定な時には、文章に書いて気持ちを整理すると気持ちが納まり、
平常な心の状態に戻るのだった。
今では一人でいる時は、文章を読むか考えるか、
ということばかりしているので、寂しいと感じる暇がない。
もしかすると、寂しさというのは言葉がない時に生じる感情なのかもしれない。
もちろん、そばに誰かがいるかいないか、というのが
寂しさの根源なのだろうが、人は言葉を持ったために、
言葉の存在があまりに大きくなってしまったのだろう。
一人でいても音楽 · テレビ · ラジオを流しておけばある程度、気は紛れる。
まことに不思議なことだが、文章を読んだり書いたりするときは、
全くの静寂 · 他者との隔離された環境が必要である。
他人がいると、例えその人が何も話していなくても、全く文章が書けなくなる。
どうも文章というのは、
寂しさを燃料として生み出されるものなのかもしれない。