前回に引き続き、PENTAX K-3 III と Carl Zeiss Jena Tessar 50mm F2.8 の組み合わせ。
今回は、 f8 縛りの編集でモノクロに変換したバージョン。
このレンズは開放 f2.8 でもそれほど気になるところはなかったけども、一応絞ったところも見ておこう。
大したものではないのだが、かっちりしたものがかっちりと撮れていて、何だか様になっている絵だなと思う。
「一応」という言葉、これも曖昧にぼやかす表現の一つだと思うが、子供の頃からよく使っていて、文脈に合わない時でも使ってしまうことがしばしばあった。
日本語に限ったことかよく分からないが、私のような喋りが苦手な人間をどこまでも甘やかすようなところがある。
意味を改めて調べてみたら、「ひととおり」という意味が一つで「完全ではないがだいたい終わった」というような意味合いで使い、もう一つは「念の為」という意味である。
使う場面は案外異なると思うが、何となく使う側の心情として、曖昧さが残るというか、慎重さがあるというか、使う人間の性格が現れる言葉だなと思う。
畑にばかでかい大根が残されていた。大根の花ってこんなふうに咲くのだと初めて知った。
普段食べているのは根っこの部分なのだろうか?だとすると、地上に根っこの部分がこんなに出てきてしまうのは随分と特殊なことだなと思う。
小学生の時など「終わった〜?」と聞くことは日常的によくあることだと思うのだが、ほとんどの子供はただ「終わった」とか「まだ」と答えるだろうと予想する。
「終わってない」場合は他に答えようがないが、「一応、終わった」というのは「作業としては形式上終わったが、終わりにしてよいものかどうか、少し迷うところがある」という心情があったのだろう。
「少し迷うところ」というのは、「明確によく分からなかった」、という場合もあれば、「正しいはずだが何となく引っかかる」、という場合もある。
大概の人は、作業をしているうちに、引っかかった点を忘れてしまうか、気にも留めないのだと思うが、作業が終わってもそれを覚えているというのは、ある程度、神経質な気質があったのだろう。
「一応、終わった」という状態が「不完全な要素を残している」ことから、「完全性を担保しない」という意味で使う人もいるかもしれない。前者は本来のニュートラルな使い方だが、後者の方は少しずる賢い使い方かもしれない。
そもそも「終わったかどうかの境界」というのは、対象によってはっきりしている場合とそうでない場合があり、はっきりしていない対象の場合、ある程度の質を求めていくと、なかなか難しいことがあるものである。単純に期限で区切るというのが現実かもしれない。
「ほぼ間違いはないと思うが、一応見直そう」という場合、完全に正しいという自信があるか既に 1,2 回確認した後ならばこのような表現にはならないはずだが、「よく分からない引っ掛かりがあるか、見落としている点があるかもしれない」という心情が「一応」という言葉に現れてくるのだろう。
子供の頃というのは何も考えずによく使っている言葉を使う癖があるようで、私などはよく分からない曖昧な要素があれば、とりあえず口走ってしまう、というようなところがあった。
「行きたいか?」と問われて、(本当は自分は行きたいかよく分からないが、相手は行きたいという言葉を期待していそうな場合)「一応、行きたいです。」と言ったり。
というか、行くことがほぼ決まっているのだったら、それをあえて問う必要があるだろうか、と内心思っていたかもしれない。
「これできるか?」と問われて、(相手の期待するレベルかは分からないが)「一応、できます。」と答えたり。
「できる·できない」という話も、人によってかなり解釈に幅があるものであって、単純に切り分けられるものではないと思うのだが、意気揚々と「できますよ」と言ってやってみたら「それはできるとは言わないよ」と言われるとか、よく聞く話ではある。
そうやって、曖昧な質問に対して「一応」を連発していると、そういう人に限って「一応って何やねん」と突っかかってきたりするものだから面倒臭いことである。
日本人は曖昧な表現が多いとよく言われるが、もし答えたくない質問とか、それは意味がない質問だ、と思った時、はっきりした物言いで定評がある言語では何と返すのだろうか?
よっぽどの場合は「その質問には答えたくありません。」とか「あなたの質問は意味を成していません。」とか言うかもしれないが、日本語でも同じだが、答え方を限定的に修飾していくことでいざこざは回避していくのだろう。
曖昧な質問にしても、話を膨らませるためにあえて曖昧な聞き方をする場合もあるので、その辺はお互いの想像力がものをいうことになる。
日常会話的には、「どうですかね〜」と考えているような感じで結局答えない、ということがよくあると、誰かに指摘されたことがあるが、実際に答えが自分の中にないのだからしょうがないのだけどな、と思ったことがある。
ある人は答えが当然あるだろうと考えている質問が、ある人には答えがない質問である場合もある。人間とはなかなか複雑なものである。